有り余る承認欲求と自己否定感をぎゅっとしてブワッとするところ。

518

お酒を一杯だけ飲んで、気持ちが良くなったあとに絶望感を感じる。
私はきっと自分の感情の浮き沈みに酷く疲れてしまうので、アルコールでいい感じになることですら精神を消耗してしまっているんだろうな。
人と会って楽しく過ごしたあとはとても落ち込むし、仕事が順調に進んだあとも強い不安に襲われる。
自分を肯定できる要素があると駄目になってしまうのかもしれない。
それが本当に肯定していいことなのか分からないから不安になる。

いつも調子に乗るな、と自分に言い聞かせているからだと思う。
少しでもいいことがあるとめちゃくちゃ調子に乗ってしまう私は、ある時からそれを極端に恥じるようになった。
でも調子乗りは簡単に治せるものではなかったので、とにかく調子に乗る自分を全否定することと、調子に乗ってしまう要素を排除することにしたんだった。
調子に乗って思ってもないことを喋りまくるので、人に会うこと自体を極力なくした。
酔うと完全に調子に乗るのであとでめちゃくちゃ嫌な気持ちになることを長い間繰り返し、やっと飲みに行くことを辞めることができた。
だから家で一人で飲むのがいいと思っていたのに、結局一人でフワフワ気持ち良くなることにすら絶望してしまうんだから、もう飲まない方がいいのかもしれない。
でもお酒っておいしい。

517

無知が過ぎるというか偏見が過ぎる大人たちの会話を聞いて頭が痛くなる。
そして私自身が持っている無知さと偏見について反省するけど、そうやって見えない他人を慮る日々に正解をもらえる日が来るのかどうか、私には分からない。
分からずに気づかずに生きることが幸せなのではないかと思わずにいられない。
対人関係において神経質な人間が損をする場面をたくさん見てきた。どちら側も経験している私はこれからどうすればいいのだろうか。
無神経さでたくさんの人を傷つけてきて、神経質に過ごす今は過去のしっぺ返しが来ているのであれば、きっとこれからずっと贖罪の人生だ。それでいいのか、分からない。
なんだかもうどうやって生きることが正解なのかは誰にも分からないんだろうな、私に正解を指し示してくれる人はずっといないんだろうと思って絶望する。

私は一人ではどこにも行けない。
誰かに引っ張ってもらって新しいところへ行くことができる。
でも、残念なことに私はどうしようもなく敏感になりすぎてしまっていて、もう新しい人間関係を構築することができないのかもしれない。
そう思うとすごく悲しい。
私には自ら選んで行きたいところがないから、このままずっと同じ景色を眺めて生きていくことになるのだろう。
心が広くあれば、余裕があれば、自尊心を守っていけば、できたかもしれないことがたくさんある。全て私自身の問題だった。

私は無知で能無しのくせして、自らの偏見に気づかない人たちに絶望している。
他人にひとしきり絶望したあとで自分に絶望する。
私が持つ考えなんてこれっぽっちも人のためにはならないし、結局私は思考を巡らすことで人を見下す術を得ただけだった。意味がない。
知らずに同調できた方がその場は平和で楽だったはずだ。

絶望する大人は周りにたくさんいる、そして私はその人たちがいないと駄目だ。
私の視点は何の意味も持たない。

516

今までずっと、所謂レールに乗った人生とは無縁だった。
10代の頃からかなりはっきりとレールに乗りたくないという思いを持っていて、今でもそうしなくて良かったな、と思っている。
10代の頃は普通でいたくないという反骨精神で生きていて、普通のことは当たり前にできるから違うことをしていたいと思っていたお馬鹿さんだった。
大人になってから自分が普通ではいられないことに気付いて、10代に夢見てた普通じゃない何者かになることはできなかったけど、あの時普通の道を選んでいなくて正解だったと思う。
普通じゃないこと自体がしんどいけど、普通を強要される場所にいるよりは楽だ。だってわたし普通じゃないし。悪い意味で。

思えば小さい頃から何もできなかった。
得意だったこともないどころか、普通くらいにできることが何もなかった。自己顕示欲が強くて人前で喋ることが苦ではないくらいで、そんなの何の役にも立たなかったし、大人になって自己肯定できるほどの要素ではなかった。
何もできないというのは、何もしてこなかったということなんだけど、何もしようとしなかったわけではなく、ただ単に何かしようとしてもやれなかった。

president.jp

この記事、ゆとり世代連呼で明らかに悪意があって最悪、「内定取り消しになる新入社員もいれば、こんなクズもいるよ」というメッセージしか感じないんだけど、
私はこの新入社員の気持ちがとても良く分かる。分かるからこそ悲しい。
やりたくないわけではなく、やれないんだよな、たぶん。
怠けてると言われればそれまでなんだけど、人生棒に振ってまで怠けたいと思う人間はいないと思う。ただ、やれないんだよ。 
結果、「もういっか」と諦める。
私もずっと「もういっか」を繰り返して、何者にもなれずに大人になった。
運良く何者かになれていたとしても、すぐに逃げ出していたかもしれない。
そんな自分のことがすごく嫌で、変わりたいと何度も強く思うのに、やっぱりやれないんだよな。
普通でありたかったと思うけど、それが幸せかも分からないな。

515

急に生活が駄目になった。
働き出して疲れているのか、久しぶりに飲酒したからか、どっちだろう。
でもどちらも小さなことだし、そんなことで駄目になるなら死んだほうが良くない?と思う。お酒はビール一本飲んだだけだし、仕事はまだ数日経っただけでそんなにストレスもなく、ただ不安があるだけ。
頑張らないようにすることにあまりにも頑張りすぎている気がしている、本末転倒だな。

私は自我を必要としないところに身を置きたくて、そうしたらなんとなく生きていけるような気がしているのだけど、そもそもそんなことを考えるのは自我が強いからであって、要は普通にしていたいというだけなんだった。
普通になりたい、でも普通が分からないので自我殺しときゃなんとかなるっしょ〜〜と思っている。甘いよね、分かってるんだけど、本当に自我が強すぎて、強いわりに何にも持っていなくて怖い。普通っていうのは何も持っていないということではないのは分かる。みんなそれぞれ何かを持っていて、自己顕示欲がどういう風に現われていくのかという違いだけなんだと思う。性格云々の前に、何も持っていないということが普通とはかけ離れている、性格のせいにしてはいけない。あまりに自我が強すぎるので、何も持ちたくないという気もしている。自分にとって強みを持ってしまったら、ものすごく嫌な人間になるだろうし、私はそれをちゃんと自覚して死にたくなってしまうだろう。
自分のこと完全否定してしまっていることと、完全否定しておきたい気持ちがゴチャゴチャになっていてあんまり良くない。

514

人間の「私はこういう物の見方ができるんだぞ」という押しつけにとてつもなく苛々する出来事があって、何故こんなに過剰に反応してしまうのかを考えたい。

人間が自分の興味外のものに触れたときの話、特に惹かれる要素がないのでとりあえず何か自分が分かる突っ込みどころを言っておこうという感じ、物をよく知っているアピール、単純に自分の知るものとの違いへの反発、斜に構えた感じが格好良いと思っている、上に立ちたい、全部理解できる。
残念ながら共感すらする、つまり同族嫌悪。

それに対して私は苛々しながらも独自の解釈を返す。
相手が言ったのと同じ精神構造で私は返すので、当然相手は苛々する。
話を遮られる。ストレス。ストレス。ストレス。

私は人に上に立たれたくないのかな、そんなはずはない。
これは感性の違いではなく、感性が同じで視点が違うということが問題のような気がする。
私はどうすれば良かったのかと言うと、軽く流せば良かったんだ、もしくはすごいね〜とか言っておけば良かった。
人間同士の衝突の構造が少しわかった。
無意味だ。こんなことに苛々して夜中に干し芋を食べている私は一体なんのために生きてるんだろう。
人と喋ることなんて自我のぶつけ合いでしかない。本当に無意味。
意味がない。私の存在に意味はないのと同じように相手の存在にも意味がない。
人が繋がるのは会話によるものではない、会話はただのツールだと思う。
会話が生み出す虚構の絆。それって意味あるの?
意味がない。全部意味がなくて無駄。だから人の命も本当は無駄なんだと思う。
そんなことを人に話すのはやめよう。人に自我を当てるのはやめよう。
そうしたら自我をあててくる人に腹立たしい思いを抱かずに済む。
全部同族嫌悪だからね。同族だよ、仕方ないことが一番ムカつく。
眠すぎてよく分からないけど。

513

今日の昼に会社近くの公園でお弁当を食べていたら、餌欲しさに向かってくるハトをやたら素早い動きで威嚇して遠ざけるおじさんがいた。
パンみたいなものをちぎっていたので、はじめは鳩に餌をやるおじさんだと思っていたんだけど、それはもう全力でハトに敵意を向けていた。前世でハトに恨みがあるんじゃないかというくらいだった。
ご飯を食べながら横目で様子を見ていると、鳩が目の前にいなくなった隙におじさんが小さくちぎったパンみたいなものを投げた。
パンの先にはスズメがいた。
ハト威嚇おじさんは、スズメラブおじさんだったのか。
まるまる肥えたハトではなく、か弱そうなスズメにパンみたいな何かを食べさせたかったんだな。
その後もスズメが来るたびにパンを投げるけど、スズメよりも速いハトが駆け寄ってくるとまた凄まじい勢いで威嚇した。スズメもびっくりして逃げる。
どうしてもハトに食べさせたくないんだろうな、わざわざ投げたパンを拾いに行くという徹底ぶりだった。
おじさんはベンチでスズメが寄ってくるのを静かに待っていた。
私は甘い卵焼きを食べた。ハトが寄ってくるけど、あげないよ。威嚇もしないけど。

512

よくある『書くことで自己肯定感を高める』という趣旨の書籍紹介記事を今日見て、ちょっとやってみようかなって思ってしまった。今までもう何十回も同じようなものを見ては同じように反応している。
自分の問題点や不安を書き出すことなんて何年も当たり前にやってきているのに、自己肯定感高める系のもの、字面だけで揺さぶられてしまう。私は怪しいセミナーとかにすぐ引っかかるけど一度参加すると覚めるタイプだと思う。
『自己肯定感』なんて単純に言うけど、人によって問題の性質が違うし根本的な解決方法は人それぞれだと思う。
書くことで自分の問題を可視化するというのは大事なことだけど、それをクリアにしたところで「自分に自信を持てるようになりました!」となる人間なんて1割もいないんじゃないかと思ってしまう。知らんけど。

昔、飲みの席で深い話になりがちだったとき、何だか色々聞かれて色々話したりしていたけど、内面的な話をしても困らせるだけだった。
その大人たちは私のよく分からない人間性から若さゆえの悩みがあると判断し、「俺も昔はそうだったけど〜」の文脈で説いてくれようとしていたんだろうけど、私が持っているのは悩みではなくて大量の問題点であったので、どうしてそうなったのかどうすれば良い方向に行くかなんていうことは既に検討し尽くしていた。
「悩みをおじさんに言ってごらん」的な下心ありきの優しさに、有り難く甘えて話すのは良いけど、その内容を最終的に自分で論破するという自己矛盾を店に撒き散らかして終了するので、よく分からない女から始まり意味分からない女でその場が終了する。
私はあの頃、『フワフワしてるように見えて意外に色々考えていて、色んな悩みを抱えているみたいだけどよく分からないから結局不思議ちゃん』枠で一部の大人から性的対象としての合格ラインをもらっていたような気がする。ただしそれは圧倒的若さありきだけど。

今そのキャラでは痛々しい以外のなんでもない、もはやコンプレックスにすらなっていて、更に問題点が増えただけだった。
あの頃とても嫌悪していた自分の女性性が、すべて若さありきの痛い人格で成り立っていたんだと思うとめちゃくちゃ恐ろしくなる。
自分の若さに無意識に甘えて生きてきた結果、ただの痛い人間でしかなくなっていたことは私の人生においてトドメだった。
でもこの件に関してはこれまでみたいに解決を検討する心の余裕はなくて、皮肉にも今ならあの頃の大人たちの欲求に少しは添えるかもしれない。でもそんなこと言っていい年齢ではないらしいので駄目なんだと思うけど。
自己言及はもう疲れた。やればやるほど自分を否定しなきゃいけない。
自己肯定感なんてもうどうでも良いから、ずっとぬいぐるみと遊んでいつの間にか消えてなくなりたい。そう思っているのに、「自己肯定感高めていこうぜ!」の声にいまだに反応するのは、まだ私は弱いってことだね。