有り余る承認欲求と自己否定感をぎゅっとしてブワッとするところ。

顔の半分を隠す常識が欲しい

世界の理みたいな概念の卵が割れて、世界中の人があらゆる苦しみから解放される夢を見た。なにそれ。
その中で私も例に漏れず苦しみから解放されていて、ほっとした気持ちで電車に乗っていたのだけど、なんだか気持ちがモヤモヤする。
なんだろうこれ、知ってるなこの感じ。嫌な感じだけどそんなはずはない、だって私たちは苦しみとさよならしたんだもの、
と思い込もうとするもモヤモヤは大きくなるばかり。
誤魔化すためにスマホをいじるけどどんどん気持ちが圧迫され焦燥感が募る。
ああそうだ、私はずっとこんな気持ちで生きてきたんだった。これは苦しみというより私の性質なんだ。
静かな絶望に気づいてしまったところで目が覚めた。寝坊した。

肌荒れを治すための薬で壊滅的な肌荒れを起こし、一週間ほどマスクをして仕事をしていた。
顔の半分が隠れているというのは良い。
暑くて蒸れるし、眼鏡は曇るけど、顔の半分を人に見られていないという安心感、最高だった。
ずっとマスクをして仕事に行きたいと思ったけど、接客業なのでそれはだめっぽい雰囲気。
なぜ駄目なんだろう。駄目な理由は分かるけど、駄目だという常識の必要性が分からない。
失礼だと思う人種のためにある常識だとすれば、私の作り笑顔で不快になる人の気持ちは無視していいのだろうか?
私が作り笑顔を人に向けることで消耗されちぐはぐな心持ちになることは無視されてもいいのだろうか?
様々な考えがある中で、常識というのはルールを定め人の価値観を一定にする。
あの人は常識がない、という感覚を共有することにより人間は安心できるんだな。

そういえば最近上司に、人として常識的な判断をしろみたいなことを言われたばかりだった。
その内容の意味が分からなくて、本当に私は社会に出てはいけないのだと自覚した。
私には常識がないです。目の前にぶら下がっている常識らしき人の意見をその場その場で読み上げる機械です。