有り余る承認欲求と自己否定感をぎゅっとしてブワッとするところ。

427

中学3年の卒業間近の頃、卒業文集とは別にクラス全員にそれぞれメッセージを送る、というものがあった。
自分に宛てられたメッセージは自分にしか渡されないので、クラス全員へ小さな手紙を送るようなものだった。
あまり話したことのないクラスメイトのメッセージは「卒業しても元気でね」みたいなお決まりの文句ばかりだったし、私自身も何を書けばいいのか皆目見当のつかないクラスメイトがいたりした。
なんの意味もない形だけの絆を結ばされているようですごく嫌だった。

今朝ふとそのことを思い出して、いくつか覚えているメッセージに何故か今更腹を立てていた。
その当時は特に腹立たしく思わなかったと思う。私は人の気持ちに鈍感で、言葉通りにしか物事を受け取れない子どもだったから。
しかしそれから15年程経った現在の私は、少なくとも過去の言葉の真意は理解できるくらいには大人になった。
そのメッセージ集は卒業後まもなく卒業文集と共に捨てているけど、何人かのメッセージを明確に覚えている。
もしかしたら腹を立ててはいないものの、当時も何かしら引っかかるものがあったからこそ覚えているのかもしれない。
そこにあるのは明らかな悪意だった。
決して悪口ではなく、言葉面は親しみのあるものばかりだったけど、その裏には嘲笑があった。

確かに私は不登校寸前だったし、勉強もできなかった。自意識が強く言動に筋が通っていないのでうまくクラスに馴染むことができなかったと思う(自覚はなかった)。
それは幼稚園の記憶からずっとそうだったし、そのことを考えるととても辛い気持ちになる。
ずっとそういう人間だったこと、いまだに変えられずにいる自分のことが憎くて仕方がない。
だから嘲笑されていても仕方ない、むしろ私という人間がいて輪を乱していたことに申し訳なさすら感じている。

では何故今朝腹が立ったのかを考えてみると、わざわざ書かなくてもいいことを投げつけられてそれをいい歳になってもずっと覚えていることが不快なんだと思う。
社会に出てから毎日のように経験した「直接的でない言葉の攻撃」そのものだった。
生きていれば誰しもが受け続け、それを流せるようになることが大人だと言われるその水面下の攻撃に、私はいつまで経っても対応できずに悩み続けていた。
そんなことに疲れ果ててた心が、今少し社会から離れてようやっと落ち着いてきた頃に悪意のある同級生からのメッセージに気付いてしまって、卒業してから一度も会っていない同級生の言葉に今更辛い思いをさせられることが腹立たしかった。

書いてて自分の感情がよく分からなくなってきたので、このあたりでやめておく。
Twitterで似たようなことを言っていた。


私はクラスで浮いた存在であったことが、そのことに自分で気付いていなかったことが、私の中学時代を全部だめなものにしてしまった。
それからも同じようにずっとだめにし続けている私の人生は、きっとこのままで終わるんだろうなと思う。