有り余る承認欲求と自己否定感をぎゅっとしてブワッとするところ。

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朝からたけのこのアク抜きをしている。米ぬかと一緒に3時間くらい茹でるんだけど、部屋の中にずっと炊き立てのご飯のにおいが充満してて幸せな気持ちになるね。
はじめて触った皮付きのたけのこは、なんか猛々しくて怖い。皮が厚くて毛があって、生命力を感じる。
私は大きな肉の塊を触ることができない。なんだか生き物感を感じてしまう、魚を捌くのも苦手。たけのこはそれと似たような感覚だった。なんか怖いな。
こんな猛々しいものからあんな繊細な香りの食べ物ができるなんて不思議な感じがしてる。

人の作ったものは全て誰かの苦労や努力の上で成り立っていて、そのことに鈍感なまま消費する私たちのことを思う。
たけのこを食べ物とした昔の誰かに対して「すごいよね」という会話は容易にできるのに、レストランで料理を作っている人に対しての敬意は持てないみたいな、そんなことが当たり前で、たけのこの見た目以上に怖い。
生まれた時から当たり前にあった物や概念に対して、それらができた経緯があることにすら無自覚なままに生きてきた。恥ずかしい。悲しい。
でもこんなに物が溢れた時代に、様々な物が使い捨てられる時代に、じっくり考えながら消費し生活できるほど時間の流れはゆっくりじゃない。
みんな人間が作った物や概念やシステムなのに、なんのために急いでいるんだろう。
別に宇宙人と生活水準の競争をしているわけでもないのに。

『丁寧な暮らし』というのが流行ったけど、ほとんどの人が『丁寧風な暮らし』なんだろうなと思う。
『丁寧な暮らし』の定義はよく分かっていないので何が正解か分からないけど、完全に形骸化した言葉のような気がする。それはよく分からないまま、考えないまま、SNSなどで目に見える分かりやすい『丁寧さ』を共有しているだけだよ、かっこ悪いよって思う。
私は結構『丁寧な暮らし』という言葉が好きだけど、たくさんの人が表面だけで消費するその概念にはちょっと辟易してる。
とはいえ、定義が分からないしきっと定義付けする必要もないことだから「ま、それぞれ楽しいならいいんじゃない」って、そういう思考で色々処理しないとやってられないよね。