有り余る承認欲求と自己否定感をぎゅっとしてブワッとするところ。

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昨日の午前中、なんだかイライラすると思っていたら生理前だった。
PMSを抑える薬を飲んで昼寝をしたらご機嫌になる。
生理前はいつも気持ちが追い詰められて頭がギューっとなる感覚がすごく辛い。
いつもは「死にたいな」とライトに考えているけど生理前は街中で叫び出したくなり「もう終わりたい…」と絶望感に苛まれる。
前の職場の上司は生理前にいつも「全員殺したい」と思うらしく、性格の違いが出て面白いなって思ったことがある。
その人は普段から気が強く全てにおいて私と真逆な人間だった。
私は他人には矛先が向かずひたすら自己否定の沼に嵌っていく。それと食欲。
不安の表れ方も性格によって変わるんだな。
その上司のことは初めから最後までずっと苦手だった。

最近は毎朝、コーヒーを飲んでから家事をし、本を読んだり勉強をして、お昼になったらお笑いを見ながら野菜を食べるという生活をしている。
すごく穏やかでこれ以上何も望んではいないけど、「ずっとこの生活をしていたい」という気持ちもなく、かと言って忙しなく動き回る生活がいいわけではない。
今は何よりも誰とも会話をせずにいられることが心の平穏を生んでいて、天気のいい日に窓を開けて一人コーヒーを飲んでいると満ち足りた気持ちになったりするんだけど、でもこのままでいることに幸福感はさほど感じられない。
自分が何を求めているのかが皆目分からない状態、それはもうずっと前からそうだった。
社会復帰すれば職場の人間関係に気を揉み、自分の無能さを突きつけられて嘆く日々がまた始まる。
それはもうしょうがない、大人だし、私は無能なんだから。
だからせめて、どうやって社会で最小限の存在でいられるか、そんなことばかり考えている。

物心ついた時から、自分が生きていることの不自然さ(のような感覚)を持っていて、自分の視点や意識がなぜ存在しているのか一体なんの意味があるのかと思っていた。
4,5歳くらいの頃母親に「なんで私の目から神様が世界を見てるの」みたいなトンデモなことを聞いたことがある。
台詞だけ聞いたら自分が中心に世界があると思っている激ヤバ女児って思うけど、実際は自分の視点と意識がなぜ存在するのか、という問いがプロテスタントの幼稚園に通っていた影響もあって「私の目を使い神が見ている」という表現になった。とても明確に覚えている。
いやこれは覚えているというか、ずっとその感覚を持っていて大人になってから正しく言語化できたという感じ。
多くの人は自分の身体そのものよりも心や意識をもって自分を認知していると思うんだけど、私は恐らく心すら自分のものである自覚がないような気がする。
だからこそ異常に承認欲求が強く、自分を自分たらしめる要素が欲しくて何かに依存してしまうのではないか。
それらは全て結局虚構でしかないので、自己を得た気になっては失うということを繰り返し続けて、こんな自己否定人間になってしまったのかもしれない。
ちょっと被害妄想が過ぎるかな、でも生理前だから仕方ないよね。