有り余る承認欲求と自己否定感をぎゅっとしてブワッとするところ。

54

昨日の午前中、なんだかイライラすると思っていたら生理前だった。
PMSを抑える薬を飲んで昼寝をしたらご機嫌になる。
生理前はいつも気持ちが追い詰められて頭がギューっとなる感覚がすごく辛い。
いつもは「死にたいな」とライトに考えているけど生理前は街中で叫び出したくなり「もう終わりたい…」と絶望感に苛まれる。
前の職場の上司は生理前にいつも「全員殺したい」と思うらしく、性格の違いが出て面白いなって思ったことがある。
その人は普段から気が強く全てにおいて私と真逆な人間だった。
私は他人には矛先が向かずひたすら自己否定の沼に嵌っていく。それと食欲。
不安の表れ方も性格によって変わるんだな。
その上司のことは初めから最後までずっと苦手だった。

最近は毎朝、コーヒーを飲んでから家事をし、本を読んだり勉強をして、お昼になったらお笑いを見ながら野菜を食べるという生活をしている。
すごく穏やかでこれ以上何も望んではいないけど、「ずっとこの生活をしていたい」という気持ちもなく、かと言って忙しなく動き回る生活がいいわけではない。
今は何よりも誰とも会話をせずにいられることが心の平穏を生んでいて、天気のいい日に窓を開けて一人コーヒーを飲んでいると満ち足りた気持ちになったりするんだけど、でもこのままでいることに幸福感はさほど感じられない。
自分が何を求めているのかが皆目分からない状態、それはもうずっと前からそうだった。
社会復帰すれば職場の人間関係に気を揉み、自分の無能さを突きつけられて嘆く日々がまた始まる。
それはもうしょうがない、大人だし、私は無能なんだから。
だからせめて、どうやって社会で最小限の存在でいられるか、そんなことばかり考えている。

物心ついた時から、自分が生きていることの不自然さ(のような感覚)を持っていて、自分の視点や意識がなぜ存在しているのか一体なんの意味があるのかと思っていた。
4,5歳くらいの頃母親に「なんで私の目から神様が世界を見てるの」みたいなトンデモなことを聞いたことがある。
台詞だけ聞いたら自分が中心に世界があると思っている激ヤバ女児って思うけど、実際は自分の視点と意識がなぜ存在するのか、という問いがプロテスタントの幼稚園に通っていた影響もあって「私の目を使い神が見ている」という表現になった。とても明確に覚えている。
いやこれは覚えているというか、ずっとその感覚を持っていて大人になってから正しく言語化できたという感じ。
多くの人は自分の身体そのものよりも心や意識をもって自分を認知していると思うんだけど、私は恐らく心すら自分のものである自覚がないような気がする。
だからこそ異常に承認欲求が強く、自分を自分たらしめる要素が欲しくて何かに依存してしまうのではないか。
それらは全て結局虚構でしかないので、自己を得た気になっては失うということを繰り返し続けて、こんな自己否定人間になってしまったのかもしれない。
ちょっと被害妄想が過ぎるかな、でも生理前だから仕方ないよね。

53

昨日は夜更かしをした。眠れなくなって、深夜にチョコパイを一つ食べて、また歯を磨かなきゃな〜と考えているうちに落ちてしまった。
絶対こういう世の中のこと、書きたくなかったんだけど、どうしても気持ちが悪いので書きます。

昨夜はどうしても、どうしても気になってしまっていたナイナイ岡村さんのラジオを聞いてしまって、眠れなくなった。思ってた通り聞いて後悔はしたけど思うところがたくさんある。私は問題発言自体にはふーんとしか思わなかったような気もするし、女性として反発する気持ちも少しあった気もするし良くわからない。それを公共の電波に乗せて言ってしまったことに対する批判は当然だと思うけど、番組降板の声が集まっているとか芸能人だから駄目みたいな話はあんまり興味がないし聞きたくない。私はテレビを見ないしテレビの世界があんまり好きじゃないので、本来はスルーしたいことなんだけど、今回は発言自体が何故問題なのかをめちゃくちゃ追求する人が多いことと、その批判に対して当人や周りが理解しているのか、理解できるのかということをすごく考える。私がふーんとしか思わなかったのは、今まで日常で良く聞く種類の発言だったから。私は「女は困ったら最悪体を売ればいいから楽」とか、風俗に行けと男性に面と向かって言われたことがあるし、風俗を利用している人がセックスワーカーを差別するような発言をしているのは何度も目にしている。しかもそれを女性に向かって発する。女性軽視しやすいところで働いたり遊んでいた経験がある私はそれに慣れきってしまっている分、逆に男性への差別意識も持っている。いわゆる「男の人は女体にしか興味がない」という酷いカテゴライズ。それは私が差別的発言をされても我慢をしてきてしまったから起こったことなんだけど。だから岡村さんの発言に対して「ふーん」としか思わなかった。でも矢部さんがあらわにした岡村さんの人間性、これは私が持つ男性への差別意識と似た種類のものがあると気付いた。異性への諦めと敵意、それが差別発言に繋がる。軽視していると受け取られるのは、良くわからない生き物に対して攻撃的になっていることが根本にあると思う。矢部さんが「恋愛のトラウマになった原因の人を何人か知っているけど」と言っていて、これは想像だけど岡村さんのトラウマを作った人も男性を軽視し差別的に見ていたのではないかなと思う。岡村さんの件に関しては、当人のコンプレックスが原因のところが大きいし、それを矢部さんは良く分かっていると思った。もちろん社会における男尊女卑の土壌があって、セックスワーカーや女性の貧困、コロナウイルスによる生活の不安が軽視された問題発言だけど、岡村さんと似たような精神状況は女性側にも起こりうることだと思う。こういうのって、差別的視線の自覚が難しい。怒られたから謝るけど、何が問題なのか本当は分かっていない。私はそんな男性をたくさん見てきたし、自分自身もそうだった。自分が軽視されていると感じるとすごく腹が立つけど、自らの差別意識には気づかなかった。岡村さんもそうだと思う、自分が負った傷には敏感なのに、自分の攻撃性には気づけないでいる。私は特別岡村さんのファンというわけでもないし、岡村さんに対して怒ったり同情したりはない。ただこの問題がこの件でたくさんの人たちの目に触れて、正しく理解できる人がどれくらいいるんだろうと考えるとちょっと辛くなってくる。怒ってる人たちの中にも感情的になり過ぎ個人攻撃に終始して意味をなしていなかったりするし(これはTwitterジェンダー論の話になるとめちゃくちゃ起こることなので、私はジェンダー論関係の単語はミュートしている)、擁護している人も完全に何が問題か理解していなかったりする。まあみんながみんなきちんと理解して議論しろとは思わないけど、問題視して話題にするなら、ちゃんと考えようよって思ってしまう。結局みんなお祭り騒ぎしたいだけだ。そんなことって世の中いっぱいあるけど、今回はそれがどうしても気持ち悪かった。それはともかく、矢部さんの言葉は私自身ナイフでえぐられた感じがあった。たくさんの大人が粛々と聞いて欲しい類の話だった。色んな人が書いているけど、こういうことを面と向かって言ってくれる人がいるのはすごいことだと思う。それもエンターテイメントの一部と言われたら困ってしまうけど。個人的な感情として私が会ってきた女性を軽視するたくさんの男性に投げつけてやりたいし、世の中の女性には自分に置き換えて考えて欲しいってすごく思う。女性蔑視の話はすごく難しいし色んな考え方が複雑になり過ぎて一般論では語れないけど、人間の持つ弱さによる異性に対する潜在的な攻撃性の表れと考えると、男女問わず当てはまる人は多いと思う。なんか誰に怒っているのか何を言いたいのか自分でも全然わからなくてまとまらないしまとめる気にもならないな。だからジェンダー論は辛い。コンプレックスとプライドの二律背反。あと芸能人の発言が発端でこんなに考えさせられてるっていうのがすごく嫌。クソが。

書き終わってから冷静にさせてくれる記事を見たので備忘録と反省として貼っておく。

fujipon.hatenablog.com

fuyu.hatenablog.com

52

この間下処理をしたたけのこをやっつけてしまいたかったので、朝からたけのこのレシピを調べて木ノ芽焼きを作ったけどびっくりするくらい美味しくなかった。最悪な気持ち。やっぱり料理は苦手。

今日も用事ができて自転車に乗れたので良かった。
地元の狭い道を走っていると、いかついオープンカーを見て「ランボルギーニランボルギーニ!」と言っている小さい男の子がいたり、お父さんとシャボン玉をする小さい女の子がいたりした。
オーガニック商品を扱うお店で固形石鹸を買った。
私はずっと無添加の固形石鹸を使って手と体、食器を洗っているんだけど、今巷ではハンドソープが品薄らしく、固形石鹸を使いましょうみたいな記事を見た。
また別の記事で、界面活性剤を使わない固形石鹸の殺菌効果の研究結果を書いていて、その研究をしていた所が私が愛用している石鹸の会社だった。この記事が発端となって手に入りにくくなったら嫌だなあ、と思う。

通り道にあるあまり行かないコーヒー店にて豆を買う。マンドリンの深煎りと迷ってケニアの中煎り。
帰ってきてから大量の野菜炒めを作って買ってきたファミチキをおかずに食べた。野菜炒めは主食。夜にコーヒーを飲むと寝付けなくなるけど、我慢できずに豆を挽く。いつも買わないお店の豆はなんだかワクワクする。
帰り道にツツジがきれいに咲いていたのを見て心がほっとする。
もう二週間以上前に買ったスプレーカーネーションがまだ元気に咲いている。
少し前まで私は世の中のきれいなものを血眼で探しながら生きていたのに、今はふとした時にきれいなものが自然と目につくようになったから嬉しい。

意識と言葉について考えたり、自分が女であることに対する嫌悪感について考える。
最近はSNSから離れて文章をたくさん読んでいるため脳みその回り方がマシになった気がする。それでも人の半分も思考できてないと思うけど。
頭が悪すぎる自分の様々な言動に唾を吐きながら、誰も私のことなんて思い出さないで欲しいなって思う。
完全に忘れてもらえて長い時が過ぎたら、私も忘れることができるかもしれない。みんなはどうか人間らしく過ごしてね。
私は一人で脳みその回し方に四苦八苦しながら生きて、誰にも知られないようにこっそり死ぬ。

51

今朝は苦労してアク抜きをした筍を炊き込みご飯にして一日が始まった。
ハローワークに行く用事があり、たくさん自転車を漕いだので運動した気になっている。
自転車に乗るのは本当に気持ちいいな、すきだな、といつも思いつつも不精者なのであまり乗らない。自転車を趣味と言えるようにしたいと、今持っているスポーツバイクを買ってから7年間ずっと思ってる。
しかし私は興味のあることを趣味にしようとすると、全力でやらないと駄目だという意識が働き、その進捗が中途半端になった途端放り出して自己嫌悪に陥るクソ人間なので、気が向いた時適当にしようね、くらいの気持ちでいたほうがいいのだ。
色んなものを齧ってきたけど、趣味と呼べることは一つもない。
また気が向いたら自転車に乗って、自転車いいなあと新鮮な気持ちで感じる。まあそれはそれでいっか、とやっと最近思えるようになった。

昨日からユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』を読み返している。
序盤に、ホモ・サピエンスは『噂話』ができるようになったことで他の人類種と一線を画した説と、想像上の現実を作りだせたことが繁栄のできたきっかけの一つだというようなことが書いてある。
なぜ人は嘘をつくのか、なぜ人々は虚構に心酔するのかをたびたび考えるけど、めちゃくちゃ乱暴に言えばそれは本能なんだな、と理解することでちょっと安心した。
そんなこと当たり前なんだろうけど、理性で制御しきれない本能がダダ漏れの人たちはまだ発展途中なだけ、という考え方はほんのちょっとだけ生きるのを楽にしてくれるんじゃないだろうか。
でも安心した反面、なんて空虚な生き物なんだろうとも思った。
新しい本能を得てめちゃくちゃ発展したけど、その本能でめちゃくちゃ苦労してるし、なんなんだろうな。アホなんかな。

430

昨日はいつもの時間に起きるものの低血圧でかなり辛かったので目覚ましを止めてまた寝た。途中起きてりんごを齧ったりしたものの結局昼過ぎまで寝てしまった。
その後も体が辛くて何もできなかったんだけど、夜に買ってきてもらった松屋の牛丼を食べて元気になった。牛丼のテイクアウトめっちゃいい。夢がある。
念のため寝る前に鉄分のサプリメントを飲んで、しあわせな気持ちで眠りについた。
あんまり牛肉食べないけど、心身共に肉の力を思い知った。牛丼ありがとう。

今朝は体調もよく、家にあるソーセージのパンとたくさんの野菜のことを思って笑顔になる。
昨日は朦朧としながら大量に野菜炒めを作ったら味付けが濃過ぎた。
冷凍庫にあるご飯も食べようかと悩んだけどあまりご飯の気分ではなかったので、からい野菜炒めだけ食べて最後にきゅうりを丸かじりした。
私は大量の野菜を主食にパンを一つ食べるのが好き。今日はパンがあるから野菜のおいしさも2倍になる日。

昨日の身体の不調はやっぱりタンパク質不足かもしれないと思い、今朝は久しぶりにソイプロテインを飲む。
家であまり肉の調理をしたくないけど、鶏胸肉でも買ってこようか。
鶏胸肉を蒸してサラダに入れたらいいんじゃないかな。
とは思いつつ、今まで調理の工程が増えるほど食べることへの意識が雑になっていくのを何度も経験しているので慎重になる。
数日料理を頑張ると急に疲れて一日中ポテトチップスだけ食べるようになったりする。
私は自分のやる気に押し潰されてしまう面倒な人間だから。

明日の朝はたけのこご飯を作ることに決めている。
今日はサラダとパンでしあわせになって、少し掃除をしてからゆっくり本を読もう。
緊急事態宣言が延長される可能性が高いという記事を見て、なんとも言えない気持ちになる。
私は今、再就職が決まった矢先の緊急事態宣言で自宅待機となっており、気持ちが宙ぶらりんな日々を過ごしている。会社もほとんどの人が自宅勤務となっているようなので、恐らく緊急事態宣言が解除されない限り私も出勤できない状態。
こんな穏やかな日々がもう少し過ごせることの嬉しさと、一日でも早く職場への適応をしたいという気持ち、新たな職場に行くことの不安でどうしようもない。
穏やかに生活をしているけど頭の中は散らかっていて、早く仕事で紛らわしたいという気持ちもあったりする。
働きたくないんだけど、私は働かないなら死にたい。働くこともおいしいご飯を食べることも好きな人と過ごすことも、人生のあらゆることは心の根底にある無常感の誤魔化しだと考えている。
そんなことを考えているのが好きだけど、それで人生が楽しくなったりはしない。
楽しいってなんだろう。少なくとも今日はソーセージパンが家にあるから、それで楽しいかな。

429

昨夜、今までの人生を冷静に考えて、やっぱり「無」だと思った。
私なりに努力してきたのだろう、足掻いていたからこそしんどかったんだと思うけど、それにしたって何もない意味のない人生だったなと思う。
ずっと前からそう思っていたけど、以前より精神的に余裕がある今考えるとより具体性を帯びてくる。
私は人をあんまり好きになれないし、それを補う社交性もない。
一人でも楽しいことはたくさんあるからそれでいいと開き直ることもできず、結局人間の営みとは他者との関係が主軸になっていることをいつも考えている。

子どもの頃からインターネットが好きなのは、みんなそれぞれが主張し合っていても、顔の見えない知らない人が発する言葉は実際の対人関係と異なって、ただその言葉をコンテンツとして認識していられるからだと思う。
今でもそうなんだけど、コンテンツとして好きだった人が急にリアルな人間としての生活感を出してくるとなんだか胸がぎゅっとなったりする。
嫉妬なのか失望なのかなんだかよく分からないんだけど、とにかくそれくらいに私は人間が苦手であり、しかし人間の作り出す物に依存し夢中になっている。そして残念なことに私も人間だ。なんてめちゃくちゃなんだろう。

でも数年間インターネットにあまり触れず、リアルの対人関係に夢中になっていた時期があった。
夜の仕事をして、仕事帰りに飲み歩いていた時期だ。
女性性を売る接客業で表面上承認欲求を満たされつつも空虚な自分がいて、それを誤魔化すためにバーで客としてきちんと酔い、酔った私のキャラクター性を基準に人と喋ったり男性と関係を持ったりしてなんとか生きていた時だった。
私にとってお酒はアイデンティティを形成する重要な道具だったし、それがないと意味をなさない人生だと思い込んでいた。
自分に絶望していたからそんな風になって、たくさんの人と接してなんだか絶望から抜けた気分でいたけど結局誤魔化していただけだった。

仕事でもプライベートでも女性性を売っていたことを考えると今は随分平和だ。
ただ女性性抜きに一人の人間として認めてもらう方法が分からなくて、あの頃どころかそれ以前よりも人見知りになっている。
私があの頃身に付けたと思っていた社交性は異性に向けた性的アプローチでしかなかった。
だから当時も女性と話すのは変わらず苦手だったし、今でも男性性に対する偏見がめちゃくちゃあるのを感じている。
世間一般の感覚とは随分かけ離れてしまっている。

私はまたインターネットに戻ってきて、誰からも構われないところで一人でモゴモゴ言っている。
きっとこのくらいがちょうどいいんだろうなあ、と思っている。
インターネットもコミュニティができて馴れ合いが過ぎた頃にフェードアウトしてきた。
現実でも、寂しくない程度に周りに人がいて、聞こえるか聞こえないかくらいの声で一人喋っていられたらいいのに、と思うけどそれはただのヤバイ奴だよ。

428

朝からたけのこのアク抜きをしている。米ぬかと一緒に3時間くらい茹でるんだけど、部屋の中にずっと炊き立てのご飯のにおいが充満してて幸せな気持ちになるね。
はじめて触った皮付きのたけのこは、なんか猛々しくて怖い。皮が厚くて毛があって、生命力を感じる。
私は大きな肉の塊を触ることができない。なんだか生き物感を感じてしまう、魚を捌くのも苦手。たけのこはそれと似たような感覚だった。なんか怖いな。
こんな猛々しいものからあんな繊細な香りの食べ物ができるなんて不思議な感じがしてる。

人の作ったものは全て誰かの苦労や努力の上で成り立っていて、そのことに鈍感なまま消費する私たちのことを思う。
たけのこを食べ物とした昔の誰かに対して「すごいよね」という会話は容易にできるのに、レストランで料理を作っている人に対しての敬意は持てないみたいな、そんなことが当たり前で、たけのこの見た目以上に怖い。
生まれた時から当たり前にあった物や概念に対して、それらができた経緯があることにすら無自覚なままに生きてきた。恥ずかしい。悲しい。
でもこんなに物が溢れた時代に、様々な物が使い捨てられる時代に、じっくり考えながら消費し生活できるほど時間の流れはゆっくりじゃない。
みんな人間が作った物や概念やシステムなのに、なんのために急いでいるんだろう。
別に宇宙人と生活水準の競争をしているわけでもないのに。

『丁寧な暮らし』というのが流行ったけど、ほとんどの人が『丁寧風な暮らし』なんだろうなと思う。
『丁寧な暮らし』の定義はよく分かっていないので何が正解か分からないけど、完全に形骸化した言葉のような気がする。それはよく分からないまま、考えないまま、SNSなどで目に見える分かりやすい『丁寧さ』を共有しているだけだよ、かっこ悪いよって思う。
私は結構『丁寧な暮らし』という言葉が好きだけど、たくさんの人が表面だけで消費するその概念にはちょっと辟易してる。
とはいえ、定義が分からないしきっと定義付けする必要もないことだから「ま、それぞれ楽しいならいいんじゃない」って、そういう思考で色々処理しないとやってられないよね。